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元気です! ながさわです!!

アッセンブリー京都教会 
牧師 長澤 聖志のblog
ふたたびおいでくださるイエス様
そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マルコの福音書13:26−27)
今日の英会話教室のチャペルでのお話し。
中学生のクラスと高校生のクラスでお話した。
終わりのときはにせキリストやにせ預言者が現れたり、
太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、
天の万象は揺り動かされるなど、
苦難と恐ろしい出来事が起こることが記されている。
でも僕にとっては
楽しみな知らせもここに書いてある。
偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って
イエス様は再びおいでくださる、ということ。
すると、みんなからいろんな質問が飛び出してきます。
イエス様が再びおいでくださる約束は、
みんなにとっても興味深いニュースだったのだ。
イエス様を大切に思っている人にとっては、
終わりのときは楽しみのときでもあるんだよ。というと
私もイエス様を信じる!
私はイエス様信じてるし!
嬉しく、楽しく、
そして微笑ましい光景が広がった。
イエス様がおいでくださるときが楽しみ。
| sasshi-n | メッセージ | 21:38 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
建てるのは主

主のために家を建てたいと願ったダビデに主は預言者ナタンを通じて語られました。「主はあなたのために一つの家を造る」と(サムエル711)。

ここに逆転があります。

 

「私が主のために主の住む家を建てる」と願うダビデに、

「主はあなたのために一つの家を造る」と答えられる主。

ここに恵みがあります。


私たちの思いが

「私が」でいっぱいになってしまったら

「私」を「主」に取り替えて

「主が」でいっぱいにしてみたいと思います。


私が建てる

私が守る

私が備える

私が・・・

から

 

主が建ててくださる

主が守ってくださる

主が備えてくださる

主が・・・

へと。


 きっとそこからまた新たな歩みが始まります。主は私たちのために建て、守り、備えを与えてくださるお方だからです。

 

| sasshi-n | メッセージ | 11:26 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
わたしのために掘り抜いてくださった耳

わたしのために掘り抜いてくださった耳

 

 私たちは恐れ惑いながら「どうしたら良いのでしょう」と誰かに言わずにはおれない状況に出くわすことがあります。四方八方ふさがれて、手も足も出ない、脱出の道も、方法も分からない、そんな状況です。エリシャに仕える若い者もそのような状況におかれました。彼が見たものは町を包囲する敵の馬と戦車の軍隊でした(粁鷁Φ6:15)。しかし、神様はそんな状況の中でも私たちの守りをしっかりと備えていてくださるお方です。エリシャは祈ります「彼の目を開いて、見えるようにしてください」と。主は若い者の目を開いて見えるようにしてくださいました。主が目を開かれた後、彼が見たものは取り巻いて山に満ちていた神の火の馬と戦車でした(6:17)。この現実は彼に希望と喜び、神様の素晴らしさを味あわせてくれたことでしょう。主は私たちの目を開いてくださるお方です。「見えるようにしてください。」この祈りは今日を生きる私たちのための祈りでもあるのです。

 

 私たちの目を開いてくださるお方は私たちの耳も開いてくださるお方でもあります。詩篇の詩人はこのようにうたっています。「あなたは私の耳を開いてくださいました」(詩篇40:6)と。この言葉は別訳で「あなた(神)が私のために掘り抜いてくださった耳」と訳されていました。「掘り抜いてくださった」。なんと力強く、一方で私たちの耳がなんと神様の語りかけを聞くのを拒む「閉ざされた耳」であるかに気づかされます。しかしそんな聞く耳を持たない態度の私たちの耳を掘り抜いてくださり、神様の語りかけを聴く者としてくださるのです。詩人は続けて喜びをもって歌います。「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります」(詩篇40:8)と。主によって耳が開かれるとき私たちには大きな喜びがあり、日々の営みに大きな違いがあらわれるのです。

 

 主が私たちの目を開いてくださいますように。主が私たちの耳を掘り抜いてくださいますように。そして日々の生活のなかで、主がなさるわざを見、主が語りかけてくださる御声を聴くことができますように。

 

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| sasshi-n | メッセージ | 20:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
御霊に満たされなさい。
御霊に満たされなさい。
 
2016年のアッセンブリー京都教会の標語は「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)です。これが私たちの信仰生活の原点だと考えたからです。御霊に満たされることを願いつつこの新しい年を歩んでまいりましょう。
 
ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(ガラテヤ人への手紙3:1-3
 
 
神様は私たちがキリストに似たものとなることを御心としておられます。その御心はどのように実現されていくのでしょうか。パウロは「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」と問いかけます。私たちはこの問いにどのように答えることができるでしょうか。「御霊によって始まった私たちは御霊によって完成させられる」と答えることができるでしょう。しかし私たちはしばしば御霊によって始まったのにも関わらず肉や律法、すなわち御霊以外のものに頼って完成させようとする、仕上げようとするのです。道の途上で迷ってしまうかのように。パウロは迷ってしまった者たちよ、立ち返れ、原点に戻れと語っているかのようです。信仰の生涯において私たちが忘れてはならないことのひとつ、それは「御霊によって始まった私たちは御霊によって完成させられる」ということではないでしょうか。この年、今一度この事実に立ち帰り、このことを心に留め続け歩みたいと思います。
 
そのはじめの一歩は「御霊に満たしてください」と祈ることだと思います。そしてこのはじめの一歩こそ、全てでもあるのです。御霊が私たちの内側で業をなしてくださるからです。この年、日々の歩みの中でこの祈りをささげつづけていきましょう。聖霊に満たされることを祈る私たちに神様がご自身の不思議なる御業をあらわしてくださいますように。
| sasshi-n | メッセージ | 21:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
あなたはどこにいるのか。
「あなたはどこにいるのか」。食べてはならないと言われた木から食べ、神から身を隠したアダムに対する神様の呼びかけです。神様の創られた麗しい園に神様の呼びかけの声が響きます。「あなたはどこにいるのか。」と。そこには悲しい響きがともなっています。
 
≪そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3:8-9)≫
 
罪は人間と神様の間に大きな隔てをつくりました。人間ではどうすることもできない大きな隔てです。しかし、神様は人となって私たち捜し求め、見つけ出し、救い出して下さいました。この事をクリスマスの出来事は私たちに思い出させてくれます。
 
≪ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。≫(ヨハネ1:14a
 
人は神のようになることを願うものなのかもしれません。神のように全てをコントロールできたらなんと幸いかと思うのです。神のように全てを見通せることができたら・・・。神のように人からの賞賛を受けることができたなら・・・。人は上へ、上へ、のぼりたいのです。しかしイエス様は反対の方向に進まれました。神であられるのに人となられたのです。下へ下へと降ってこられたのです。これは大いなるへりくだりの奇跡です。
人となられたイエス様は何をなされたのでしょうか。神であるイエスは私たちを罪から救うために来られたというのです。神は私たちを罪から救うために人となられました。
 
≪この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。(マタイ1:21)≫
 
「あなたはどこにいるのか」。神様はずっとこの呼びかけをし続けてこられました。迷っていなくなった羊を羊飼いがさがしまわるように。そして神は人となって私たちのところに来て下さいました。私たちの罪のため、十字架にかかり私たちの罪の赦しを成し遂げて下さったのです。
今日も神様は私たちに呼びかけておられます。「あなたはどこにいるのか」と。私たちはこの呼びかけにどのようにこたえるでしょうか。この呼びかけは今日の私たちにどのような意味があるのでしょうか。この年のクリスマスが神様の呼びかけ、また語りかけに耳を傾ける時となりますように。
| sasshi-n | メッセージ | 07:36 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
主に育まれて

 「主が教会に連なるおひとりおひとりを育んでくださいますように」。日々の祈りの中でそのように祈っています。すると「育む」という言葉の優しく心地よい響きが心に迫ってきます。

 成長すること、発展することはとても素晴らしい事だと思いますし、大切な事だと思います。そしてそれは多くの人が期待することでもあるでしょう。しかし「成長」や「発展」に目を奪われるとき私たちが見失ってしまうことがあります。それは私たちが主によって育まれている者であるということです。

 「育む」という言葉の意味を調べてみると、《「羽()(くく)む」の意》であり、 親鳥がひなを羽で包んで育てる。 養い育てる。大事に守って発展させる。とありました。

 

 聖書にはこのような言葉があります。主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。(申命記32:10 -11≫≪ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。(ルカ13:34 

 私たちは神様によって育まれているものなのです。しかし一方で育まれることに抵抗する一面も私たちにはあるのです。成長、発展に駆り立てられる時、いつしか神様に育まれているという事実を忘れて自分の目に、より良く見える方法や手っ取り早い方法、自分の力への信頼に誘われてしまうのかもしれません。


 私たちを真実に育み成長させてくださるキリストにとどまりたいと思います。また私たちの愛する人々をキリストの御翼の下にお連れしましょう。主が私たちを、そして私たちの愛する方々をご自身の御翼の下で育んでくださいます。

※Goo 辞書http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/175104/m0u/

 

| sasshi-n | メッセージ | 18:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

イエス様に出会って生き方が変えられたひとりの人物のお話しをしたいと思います。その人の名前はザアカイと言います。彼は金持ちであったと記されています。しかし人々からは罪人と呼ばれていました。実際に彼は自分でも告白します、人々からお金でだまし取っていたことを。そんな彼がイエス様と人々がいる前でこんな風に宣言するのです。

 

ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」≫(ルカの福音書19:8)

 

施すことと償いをすることを宣言したのです。彼の心の変化はどのように起きたのでしょうか。それはイエス・キリストと出会い、イエスキリストを自分の家にお迎えしたことによって起こりました。そしてイエスを自分の「主」としたことによって起こったのです。

 

ザアカイにとってこのイエス様との出会いは偶然でラッキーな出来事に思えたことでしょう。イエス様がザアカイの住む町にやってきました。一目見ようと思ったザアカイはイエス様が来られたという場所に行ってみます。しかし、多くの人がいてみることができません。ザアカイは背が低かったとあります。イエス様をみるためには人だかりが彼を邪魔したのです。そこでザアカイは走って前方にある木に登りました。ちょうどイエス様がそこを通り過ぎようとされていたからです。木に登ってイエス様をみようと考えたのです。するとちょうどそこにイエス様はおいでになり、このようにおっしゃいました。

 

≪「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」≫(ルカの福音書19:5)

 

イエス様はザアカイの名を呼び、ザアカイの家で泊まることにしていることを告げられたのです。喜んだザアカイはすぐに木を降り、イエス様を自分の家に迎えました。そして最初にお話しした宣言を語るのです。

 

≪「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」≫と。

 

ザアカイが登った木はちょうどイエス様が通り過ぎようとされているところにありました。そしてちょうどイエス様がその木の下を通られたのです。「ちょうど」という言葉がとても印象的です。なんとザアカイは運の良い人でしょうか。様々な偶然が重なりました。様々な「たまたま」が重なってイエス様との出会いがあったのです。私たちからみるならばザアカイという人はイエス様に偶然出会い、人生が変えられた運の良い人と見えるかもしれません。

 

しかし、イエス様からみると違うようです。イエス様はこの出来事の最後にこんな風に語られます。

 

≪イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」≫(ルカ19:9-10

 

イエス様はザアカイを捜して求めておられたのです。捜すということはどういうことでしょうか。大事なこどもとはぐれてしまったとき、親は一生懸命に捜します。旅の途中であれば引き返して、至る所を必死に捜すでしょう。もし、暗闇の中でお金を落としたならば灯りをともし、必死に捜すことでしょう。捜すとはそういうことです。大切なもの、貴重なもの、失ったままにはしておけないものそのようなものを必死に捜すのです。

 

イエス様にとってザアカイはそのような人であり、捜し続けられていた人なのです。私たちからみればたまたま、偶然が重なったように見えるザアカイとイエス様の出会いも、イエス様がさがし求められ、偶然ではなく、必然的に起こった出会いだったのです。

 

私たちもイエス様が捜しておられるひとりひとり一人です。人々からみれば罪人、自分の心の内を正直にみれば罪深い者であるのが私たちです。しかし、イエス様はザアカイに対してそうであったように失われている者とみておられるのです。すなわち、まことの主人を見失って自分の本来の生き方を失っているものです。まことの主であるイエス様は私たちを捜し、まことの生き方を私たちにさせてくださるお方です。

 

今日、私たちはたまたまイエス様のお話を聞いていると思っているかもしれません。「近くにたまたま教会があったから」、「たまたま知り合いに教会を知っている人がいたから」、「たまたま案内を受け取ったから」たくさんの偶然でイエス様のお話を聞いていると思っているかもしれません。しかし、イエス様はあなたを捜して、今日、あなたに出会っておられるのです。ザアカイが私たちに教えてくれるのはきょう、あなたがイエスを自分の人生の「主」と呼ぶなら、自分の神様と呼ぶなら、私たちにはこれまでと違ったあたらしい心が生まれるということです。

 

あなたにとってイエスを自分の主とする、自分の神とする「きょう」はいつでしょうか?今日があなたの救いがやってくる「きょう」となりますように。

 

| sasshi-n | メッセージ | 18:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
慰めのほとりに生きる
慰めのほとりに生きる
 
≪主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。≫(エレミヤ17:7-8)
 
今年もはや7月、暑い夏を迎えようとしています。喉をうるおす水が手放させないこの季節、「水のほとりに植わった木のように」という詩人の歌が心に響いてきます。「暑さが来ても暑さを知らず、日照りの年にも実を実らせる」。なんと望みに満ちた約束でしょうか。
水のほとりに植わっているならば暑さや日照りに耐えることができるでしょう。また慰めのほとりに私たちが生きているならば苦難の時にも私たちは耐える事ができるでしょう。暑さや日照りの時に水が必要なように苦難の時に私たちには慰めが必要だからです。
 
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。2コリント人への手紙1:4-5
 
神様は私たちを慰めてくださるお方だとパウロは教えています。木々に暑さや日照りが訪れるように、私たちの人生には時に苦難が訪れます。そのような時に神様は慰めを与えてくださいます。そして神様の慰めは苦難に耐え抜く力を私たちに与えてくれるのです。
慰めのほとりに生きている者であるということをいつも心にとめて歩みましょう。私たちが慰めをもっているわけではありません。ですから私たちが慰めを自由に取り扱えるというものではないのです。慰めを誰かに自分の思いのままに与えることはできません。しかし、私たちは慰めのほとりに生きています。ですから苦難のときに不思議な慰めを受け取ることができます。また慰めを周りの人に押し流す器とされることもあるでしょう。慰めのほとりに生きている恵みを豊かに受け取ることができますように。
 
| sasshi-n | メッセージ | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
思いもよらぬ場所で・・・。

それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言った。(マルコの福音書15:37ー39 )


神の子に出会った兵士

・思いもよらぬ場所で

・誰も神の子と思いもしなかった時に

| sasshi-n | メッセージ | 21:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
父の約束の御霊
ガラテヤ人への手紙3:13-14
<3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。14 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。>

イエス様の事についてどのようなことをご存知でしょうか?イエスキリストは十字架にかかって死なれました。イエス様と十字架は切っても切り離せない関係です。先ほど読みました聖書によりますと十字架の出来事は私たちの呪いを引き受けてくださった出来事だということです。十字架の死はまさに呪いにふさわしい死に方です。苦しみの限りを尽くす死に方です。しかしそれだけではありません。ユダヤ人にとっては彼が呪われた者であることの目に見える印しであり、証拠でもあるのです。「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」木に掛けられたものの死を見たならば彼の過去を知らなくても呪われた者であることを断言できる程にです。ですからイエスが十字架に架けられた殺された事実は、彼が祝福された者ではなく呪われた者の証しであるのです。しかし聖書はイエス様が私たちの受けるべき呪いを引き受けてくださった出来事として教えているのです。イエスは確かに呪われた者となられた。それは私たちの呪いを引き受けてくださったのです。

私たちは呪いを受けるに値するものです。罪をもっているからです。神様の前に正しく歩むことのできない私たちは呪いの内にあるというのです。ではイエス様が呪いを引き受けてくださったことによって私たちの呪いはどのようになったのでしょうか。呪いに代えて祝福が与えられました。イエス様が私たちの呪いを引き受けてくださったからです。
その祝福とは具体的にどのようなものだったのでしょうか。それは約束の御霊を受けるということです。聖書に「神と共に生きる」という生き方が記されています。それは祝福された人生と言ってもよいでしょう。旧約聖書の最初の書、創世記の一節です。「エノクは神とともに歩んだ」。一人の人の生涯をこの言葉で表現しているのです。祝福された人生として、です。
またイエス様は天に上げられる前、弟子たちに約束を与えられました。「わたしはいつもあなた方とともにいます」と。これはイエス様の弟子たちに対する約束です。弟子たちにとってどれだけ励ましになった言葉でしょうか。弟子たちにとって何にもまして喜ばしい約束であったことと思います。イエス様と共に約3年半過ごした彼らはイエス様と共に生きることの喜びを深く知っていたからです。
神と共に生きる。これは神様が与えてくださる祝福であり、イエス様の私たちに対する約束でもあるのです。ではそれはどのように実現するのでしょうか。聖書には「約束の御霊を受ける」とあります。御霊とは人格をもっておられるお方です。聖霊とも呼ばれます。神の霊と呼ばれる聖霊です。キリストの霊と呼ばれる聖霊です。もうひとりの助け主とイエス様が言われたお方です。天に昇られる前にイエス様が語られたもう一つの言葉を読んでみましょう。


使徒の働き1:4-5
<1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」>

ルカの福音書24:49
<24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」>


このイエス様の約束の通り聖霊が降り、弟子たいは聖霊と共に歩む人生、すなわち神と共に歩む人生、キリストと共に歩むが始まったのです。 この神様が約束してくださった人生が私たちにも今与えられているのです。「14 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」イエス様が十字架で呪いを引き受けてくださったことによって与えられた祝福、神と共に歩む人生を受け取る者でありたいと思います。それは信仰によって受け取る事でできるものです。
 
神と共に生きる生涯が与えられていることに感謝したいと思います。また神と共に生きる人生をしっかりと味わいながら歩みましょう。キリストが呪われた者となってまで与えられた生き方なのですから。
| sasshi-n | メッセージ | 21:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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