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アッセンブリー京都教会 
牧師 長澤 聖志のblog
祈りを聞き、涙を見ておられるお方

『祈りを聞き、涙を見ておられるお方』

 

 20:1そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」

 20:2そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。

 20:3「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。

 20:4イザヤがまだ中庭を出ないうちに、次のような主のことばが彼にあった。

 20:5「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。

 20:6わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」

 20:7イザヤが、「干しいちじくをひとかたまり、持って来なさい。」と命じたので、人々はそれを持って来て、腫物に当てた。すると、彼は直った。(第2列王記20:1-7)

 

神様はどのようなお方なのでしょうか。

神様は死に至るような重い病を癒すことのできるお方です。

そして私たちの祈りを聞き、

私たちの涙を見ておられるお方だと聖書は語っています。 

 

先ほどお読みした箇所に一人の人物が

大声で泣いたことが記されています。

 

「ヒゼキヤはお大声で泣いた」(3節)。

 

ヒゼキヤとはどのような人物なのでしょうか。

彼は王様です。ユダ王国の王様です。

一国の王様が大声で泣いたというのです。

 

彼はどのような王様だったのでしょうか。

 

<彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼の後にも前にもユダの王たちの中で彼ほどのものは誰もいなかった。彼は主に堅くつき従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。主は彼とともにおられた。彼はどこへ出ていっても成功を収めた。彼はアッシリヤの王に反逆し、彼に仕えなかった。>(第2列王記18:5-7)

 

ヒゼキヤ王は神様を信頼し、

神様の御心を行うことを心にかけた良い王様でした。

 

イスラエルには多くの王様が登場しますが

多くは神様に背く王様です。

そのような中にあってこのヒゼキヤ王は

「彼の後にも前にもユダの王たちの中で

彼ほどのものは誰もいなかった。」と

言われるほどに良き王様であったのです。  

 

この神様を信頼する王様が重い病を患い

大声で泣いたのです。

 

彼は一国の王様でしたが

泣くことのできる場所を持っていました。

これが彼に与えられていた恵みではないでしょうか。

人目をはばからず、自分の地位や立場を気にすることなく

泣くことのできる場所。

そんな場所を私たちは持っているでしょうか。

 

彼が大声で泣いたのは祈りの中でした。

壁に向かって祈った祈りの中で

彼は大声で泣いたのでした。

彼は神様の前で泣いたのです。

彼にとって大声で泣くことのできる場所、

それは神様の前でした。 

 

 

ここに彼の神様への信頼というものが

あらわされている気がします。

その信頼はへりくだった心でもあるのです。

 

自らを一番とする生き方ではなく

神様のまえにへりくだり、

虚勢を脱ぎ去り、神様の前にひざまずき、

神様を主とするという生き方です。

 

このような場所を持っている人は幸いだと思います。

その場所はいつでも開かれています。

自らの悲しみや恐れを正直にあらわし

大声で泣くことができる場所

を私たちは与えられているのです。

それは神様の前に開かれています。 

 

彼が大声で泣いたとき

彼はどのような状況にいたのでしょうか。

一節「そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた」。

彼は病にかかっていたのです。

しかも死が間近に迫っているような重い病です。

病と死、それはわたしたちの人生にも

深く関わっていることではないでしょうか。

 

病は私たちに苦しみをもたらします。

死は私たちにいろいろなものを手放すことを要求し、

しばしば恐れをもたらします。

しかし、病の中でヒゼキヤはその状況を通して

迫り来る死を感じていただけではありません。

彼の信頼する神様から死を宣告されるのです。1

節の後半です。

 

<「そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう言われる。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない。』」>

 

「あなたは死ぬ。治らない」とはっきりヒゼキヤは預言者から

主の宣告を聞くのです。

神様もなかなかはっきりおっしゃるお方です。

「あなたは死ぬ。治らない。」・・・。

この言葉を聞くヒゼキヤにとってなかなかきつい言葉ではないでしょうか。

もう少し言い方があるのではないかと僕は思ってしまいます。

 

 

ヒゼキヤに語られた神様の言葉は私たちの人生についていくつかのことを教えてくれます。

一つは、神様は私たちの生と死を握っておられるということです。

病を通して死が近いことを推測することはできるでしょう。

しかし死を宣告することができるのは神様しかいらっしゃいません。

しかも、この宣告がなされた後、

ヒゼキヤの祈りを聞かれた神様はこの病を癒し、

15年の寿命を加えられるのです。

ヒゼキヤが信じていた神様は人間の生と死を握っておられるお方です。

 

また「あなたは死ぬ」と宣告された神様は「

あなたの家を整理せよ」とヒゼキヤに命じられました。

死は人生の歩みにおいて、培ったこと、手に入れたもの、

積み上げたことを手放すことだと申し上げました。

 

しかし、ただ手放すだけではなく引き継ぐことでもあるということです。

私たちのこの世の歩みは死によって無駄になるのではなく、

のちの人たちによって引き継がれるということです。

ヒゼキヤ王の自らの歩み、すなわち神様の前に誠実に歩んだ歩みは

彼の死によって水の泡となるようなものではありませんでした。

 

蒔かれたタネが時をへて実を結ぶように、

なくなるものではないとうことです。

ここに神様を信じて歩むものの恵みがあるのです。

誠実な歩みは時として顧みられることなく、

何の得もないように思える時があります。

 

ましてや神様に対する誠実はこの世にあって

評価されないことも多々あるのが現実です。

しかしそれは決して消え去るものではなく

神様を信頼するものによって引き継がれ、

やがて大きな実を結ぶことを信じることができるのです。

 

 神様から『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない。』

という言葉を聞いたヒゼキヤがしたことは祈ることでした。3節をお読みします。

 

「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。

 

この祈りを聞かれた神様は預言者を引き返させ

新たな宣告をヒゼキヤに対してなさいます。

 

『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」(20:5−6)

 

死の宣告から癒しへの宣告へと変えられた一つのきっかけは

ヒゼキヤの祈りと彼が流した涙でした。

それは神様が祈りを聞き、

私たちの流す涙を見ておられるお方だからです。

 

神様は私たちの祈りを軽んじられません。

また私たちの涙を地に落とすことのないお方です。

神様の前にひざまずくとき私たちの涙は

地に落ちるのではなく天にのぼり神様にのぼる涙なのです。

 

私たちはこの世にあって多くの悲しみや苦しみを体験し、

多くの涙を流すことでしょう。

しかし、神様はその涙を決して忘れることのないお方です。

神様の前にある誠実な歩みが決して忘れられることのないのと同じように、

私たちの涙を神様は決してお忘れになりません。

 

聖書はこのような約束を私たちに与えています。黙示録21:2-4をお読みします。

 

<私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 21:3そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 21:4彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」>(黙示録21:2-4)

 

 

神様は私たちの祈りを聞いてくださり

私たちの涙をみておられるお方です。

そしてその涙をすっかり拭ってくださるお方でもあるのです。

新しい天と地が訪れるとき、

私たちの涙を神様は拭い取ってくださるのです。

 

私たちはこの世で多くの涙を流すことでしょう。

病の苦しみによって。死の恐れによって。

人間関係によって傷つくことによって。

悲しみによって。痛みによって。・・・。

 

しかし、神様はその涙を覚えていてくださり拭ってくださるお方です。

ヒゼキヤが神様に近づいたように

私たちもこの神様に今、近づく者でありたいと思います。

神様は私たちの祈りを聞き、良きことをしてくださるお方です。

 

お祈りします。

| sasshi-n | メッセージ | 20:12 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
ふたたびおいでくださるイエス様
そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マルコの福音書13:26−27)
今日の英会話教室のチャペルでのお話し。
中学生のクラスと高校生のクラスでお話した。
終わりのときはにせキリストやにせ預言者が現れたり、
太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、
天の万象は揺り動かされるなど、
苦難と恐ろしい出来事が起こることが記されている。
でも僕にとっては
楽しみな知らせもここに書いてある。
偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って
イエス様は再びおいでくださる、ということ。
すると、みんなからいろんな質問が飛び出してきます。
イエス様が再びおいでくださる約束は、
みんなにとっても興味深いニュースだったのだ。
イエス様を大切に思っている人にとっては、
終わりのときは楽しみのときでもあるんだよ。というと
私もイエス様を信じる!
私はイエス様信じてるし!
嬉しく、楽しく、
そして微笑ましい光景が広がった。
イエス様がおいでくださるときが楽しみ。
| sasshi-n | メッセージ | 21:38 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
建てるのは主

主のために家を建てたいと願ったダビデに主は預言者ナタンを通じて語られました。「主はあなたのために一つの家を造る」と(サムエル711)。

ここに逆転があります。

 

「私が主のために主の住む家を建てる」と願うダビデに、

「主はあなたのために一つの家を造る」と答えられる主。

ここに恵みがあります。


私たちの思いが

「私が」でいっぱいになってしまったら

「私」を「主」に取り替えて

「主が」でいっぱいにしてみたいと思います。


私が建てる

私が守る

私が備える

私が・・・

から

 

主が建ててくださる

主が守ってくださる

主が備えてくださる

主が・・・

へと。


 きっとそこからまた新たな歩みが始まります。主は私たちのために建て、守り、備えを与えてくださるお方だからです。

 

| sasshi-n | メッセージ | 11:26 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
わたしのために掘り抜いてくださった耳

わたしのために掘り抜いてくださった耳

 

 私たちは恐れ惑いながら「どうしたら良いのでしょう」と誰かに言わずにはおれない状況に出くわすことがあります。四方八方ふさがれて、手も足も出ない、脱出の道も、方法も分からない、そんな状況です。エリシャに仕える若い者もそのような状況におかれました。彼が見たものは町を包囲する敵の馬と戦車の軍隊でした(粁鷁Φ6:15)。しかし、神様はそんな状況の中でも私たちの守りをしっかりと備えていてくださるお方です。エリシャは祈ります「彼の目を開いて、見えるようにしてください」と。主は若い者の目を開いて見えるようにしてくださいました。主が目を開かれた後、彼が見たものは取り巻いて山に満ちていた神の火の馬と戦車でした(6:17)。この現実は彼に希望と喜び、神様の素晴らしさを味あわせてくれたことでしょう。主は私たちの目を開いてくださるお方です。「見えるようにしてください。」この祈りは今日を生きる私たちのための祈りでもあるのです。

 

 私たちの目を開いてくださるお方は私たちの耳も開いてくださるお方でもあります。詩篇の詩人はこのようにうたっています。「あなたは私の耳を開いてくださいました」(詩篇40:6)と。この言葉は別訳で「あなた(神)が私のために掘り抜いてくださった耳」と訳されていました。「掘り抜いてくださった」。なんと力強く、一方で私たちの耳がなんと神様の語りかけを聞くのを拒む「閉ざされた耳」であるかに気づかされます。しかしそんな聞く耳を持たない態度の私たちの耳を掘り抜いてくださり、神様の語りかけを聴く者としてくださるのです。詩人は続けて喜びをもって歌います。「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります」(詩篇40:8)と。主によって耳が開かれるとき私たちには大きな喜びがあり、日々の営みに大きな違いがあらわれるのです。

 

 主が私たちの目を開いてくださいますように。主が私たちの耳を掘り抜いてくださいますように。そして日々の生活のなかで、主がなさるわざを見、主が語りかけてくださる御声を聴くことができますように。

 

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| sasshi-n | メッセージ | 20:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
御霊に満たされなさい。
御霊に満たされなさい。
 
2016年のアッセンブリー京都教会の標語は「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)です。これが私たちの信仰生活の原点だと考えたからです。御霊に満たされることを願いつつこの新しい年を歩んでまいりましょう。
 
ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(ガラテヤ人への手紙3:1-3
 
 
神様は私たちがキリストに似たものとなることを御心としておられます。その御心はどのように実現されていくのでしょうか。パウロは「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」と問いかけます。私たちはこの問いにどのように答えることができるでしょうか。「御霊によって始まった私たちは御霊によって完成させられる」と答えることができるでしょう。しかし私たちはしばしば御霊によって始まったのにも関わらず肉や律法、すなわち御霊以外のものに頼って完成させようとする、仕上げようとするのです。道の途上で迷ってしまうかのように。パウロは迷ってしまった者たちよ、立ち返れ、原点に戻れと語っているかのようです。信仰の生涯において私たちが忘れてはならないことのひとつ、それは「御霊によって始まった私たちは御霊によって完成させられる」ということではないでしょうか。この年、今一度この事実に立ち帰り、このことを心に留め続け歩みたいと思います。
 
そのはじめの一歩は「御霊に満たしてください」と祈ることだと思います。そしてこのはじめの一歩こそ、全てでもあるのです。御霊が私たちの内側で業をなしてくださるからです。この年、日々の歩みの中でこの祈りをささげつづけていきましょう。聖霊に満たされることを祈る私たちに神様がご自身の不思議なる御業をあらわしてくださいますように。
| sasshi-n | メッセージ | 21:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
あなたはどこにいるのか。
「あなたはどこにいるのか」。食べてはならないと言われた木から食べ、神から身を隠したアダムに対する神様の呼びかけです。神様の創られた麗しい園に神様の呼びかけの声が響きます。「あなたはどこにいるのか。」と。そこには悲しい響きがともなっています。
 
≪そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3:8-9)≫
 
罪は人間と神様の間に大きな隔てをつくりました。人間ではどうすることもできない大きな隔てです。しかし、神様は人となって私たち捜し求め、見つけ出し、救い出して下さいました。この事をクリスマスの出来事は私たちに思い出させてくれます。
 
≪ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。≫(ヨハネ1:14a
 
人は神のようになることを願うものなのかもしれません。神のように全てをコントロールできたらなんと幸いかと思うのです。神のように全てを見通せることができたら・・・。神のように人からの賞賛を受けることができたなら・・・。人は上へ、上へ、のぼりたいのです。しかしイエス様は反対の方向に進まれました。神であられるのに人となられたのです。下へ下へと降ってこられたのです。これは大いなるへりくだりの奇跡です。
人となられたイエス様は何をなされたのでしょうか。神であるイエスは私たちを罪から救うために来られたというのです。神は私たちを罪から救うために人となられました。
 
≪この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。(マタイ1:21)≫
 
「あなたはどこにいるのか」。神様はずっとこの呼びかけをし続けてこられました。迷っていなくなった羊を羊飼いがさがしまわるように。そして神は人となって私たちのところに来て下さいました。私たちの罪のため、十字架にかかり私たちの罪の赦しを成し遂げて下さったのです。
今日も神様は私たちに呼びかけておられます。「あなたはどこにいるのか」と。私たちはこの呼びかけにどのようにこたえるでしょうか。この呼びかけは今日の私たちにどのような意味があるのでしょうか。この年のクリスマスが神様の呼びかけ、また語りかけに耳を傾ける時となりますように。
| sasshi-n | メッセージ | 07:36 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
主に育まれて

 「主が教会に連なるおひとりおひとりを育んでくださいますように」。日々の祈りの中でそのように祈っています。すると「育む」という言葉の優しく心地よい響きが心に迫ってきます。

 成長すること、発展することはとても素晴らしい事だと思いますし、大切な事だと思います。そしてそれは多くの人が期待することでもあるでしょう。しかし「成長」や「発展」に目を奪われるとき私たちが見失ってしまうことがあります。それは私たちが主によって育まれている者であるということです。

 「育む」という言葉の意味を調べてみると、《「羽()(くく)む」の意》であり、 親鳥がひなを羽で包んで育てる。 養い育てる。大事に守って発展させる。とありました。

 

 聖書にはこのような言葉があります。主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。(申命記32:10 -11≫≪ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。(ルカ13:34 

 私たちは神様によって育まれているものなのです。しかし一方で育まれることに抵抗する一面も私たちにはあるのです。成長、発展に駆り立てられる時、いつしか神様に育まれているという事実を忘れて自分の目に、より良く見える方法や手っ取り早い方法、自分の力への信頼に誘われてしまうのかもしれません。


 私たちを真実に育み成長させてくださるキリストにとどまりたいと思います。また私たちの愛する人々をキリストの御翼の下にお連れしましょう。主が私たちを、そして私たちの愛する方々をご自身の御翼の下で育んでくださいます。

※Goo 辞書http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/175104/m0u/

 

| sasshi-n | メッセージ | 18:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

イエス様に出会って生き方が変えられたひとりの人物のお話しをしたいと思います。その人の名前はザアカイと言います。彼は金持ちであったと記されています。しかし人々からは罪人と呼ばれていました。実際に彼は自分でも告白します、人々からお金でだまし取っていたことを。そんな彼がイエス様と人々がいる前でこんな風に宣言するのです。

 

ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」≫(ルカの福音書19:8)

 

施すことと償いをすることを宣言したのです。彼の心の変化はどのように起きたのでしょうか。それはイエス・キリストと出会い、イエスキリストを自分の家にお迎えしたことによって起こりました。そしてイエスを自分の「主」としたことによって起こったのです。

 

ザアカイにとってこのイエス様との出会いは偶然でラッキーな出来事に思えたことでしょう。イエス様がザアカイの住む町にやってきました。一目見ようと思ったザアカイはイエス様が来られたという場所に行ってみます。しかし、多くの人がいてみることができません。ザアカイは背が低かったとあります。イエス様をみるためには人だかりが彼を邪魔したのです。そこでザアカイは走って前方にある木に登りました。ちょうどイエス様がそこを通り過ぎようとされていたからです。木に登ってイエス様をみようと考えたのです。するとちょうどそこにイエス様はおいでになり、このようにおっしゃいました。

 

≪「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」≫(ルカの福音書19:5)

 

イエス様はザアカイの名を呼び、ザアカイの家で泊まることにしていることを告げられたのです。喜んだザアカイはすぐに木を降り、イエス様を自分の家に迎えました。そして最初にお話しした宣言を語るのです。

 

≪「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」≫と。

 

ザアカイが登った木はちょうどイエス様が通り過ぎようとされているところにありました。そしてちょうどイエス様がその木の下を通られたのです。「ちょうど」という言葉がとても印象的です。なんとザアカイは運の良い人でしょうか。様々な偶然が重なりました。様々な「たまたま」が重なってイエス様との出会いがあったのです。私たちからみるならばザアカイという人はイエス様に偶然出会い、人生が変えられた運の良い人と見えるかもしれません。

 

しかし、イエス様からみると違うようです。イエス様はこの出来事の最後にこんな風に語られます。

 

≪イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」≫(ルカ19:9-10

 

イエス様はザアカイを捜して求めておられたのです。捜すということはどういうことでしょうか。大事なこどもとはぐれてしまったとき、親は一生懸命に捜します。旅の途中であれば引き返して、至る所を必死に捜すでしょう。もし、暗闇の中でお金を落としたならば灯りをともし、必死に捜すことでしょう。捜すとはそういうことです。大切なもの、貴重なもの、失ったままにはしておけないものそのようなものを必死に捜すのです。

 

イエス様にとってザアカイはそのような人であり、捜し続けられていた人なのです。私たちからみればたまたま、偶然が重なったように見えるザアカイとイエス様の出会いも、イエス様がさがし求められ、偶然ではなく、必然的に起こった出会いだったのです。

 

私たちもイエス様が捜しておられるひとりひとり一人です。人々からみれば罪人、自分の心の内を正直にみれば罪深い者であるのが私たちです。しかし、イエス様はザアカイに対してそうであったように失われている者とみておられるのです。すなわち、まことの主人を見失って自分の本来の生き方を失っているものです。まことの主であるイエス様は私たちを捜し、まことの生き方を私たちにさせてくださるお方です。

 

今日、私たちはたまたまイエス様のお話を聞いていると思っているかもしれません。「近くにたまたま教会があったから」、「たまたま知り合いに教会を知っている人がいたから」、「たまたま案内を受け取ったから」たくさんの偶然でイエス様のお話を聞いていると思っているかもしれません。しかし、イエス様はあなたを捜して、今日、あなたに出会っておられるのです。ザアカイが私たちに教えてくれるのはきょう、あなたがイエスを自分の人生の「主」と呼ぶなら、自分の神様と呼ぶなら、私たちにはこれまでと違ったあたらしい心が生まれるということです。

 

あなたにとってイエスを自分の主とする、自分の神とする「きょう」はいつでしょうか?今日があなたの救いがやってくる「きょう」となりますように。

 

| sasshi-n | メッセージ | 18:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
慰めのほとりに生きる
慰めのほとりに生きる
 
≪主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。≫(エレミヤ17:7-8)
 
今年もはや7月、暑い夏を迎えようとしています。喉をうるおす水が手放させないこの季節、「水のほとりに植わった木のように」という詩人の歌が心に響いてきます。「暑さが来ても暑さを知らず、日照りの年にも実を実らせる」。なんと望みに満ちた約束でしょうか。
水のほとりに植わっているならば暑さや日照りに耐えることができるでしょう。また慰めのほとりに私たちが生きているならば苦難の時にも私たちは耐える事ができるでしょう。暑さや日照りの時に水が必要なように苦難の時に私たちには慰めが必要だからです。
 
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。2コリント人への手紙1:4-5
 
神様は私たちを慰めてくださるお方だとパウロは教えています。木々に暑さや日照りが訪れるように、私たちの人生には時に苦難が訪れます。そのような時に神様は慰めを与えてくださいます。そして神様の慰めは苦難に耐え抜く力を私たちに与えてくれるのです。
慰めのほとりに生きている者であるということをいつも心にとめて歩みましょう。私たちが慰めをもっているわけではありません。ですから私たちが慰めを自由に取り扱えるというものではないのです。慰めを誰かに自分の思いのままに与えることはできません。しかし、私たちは慰めのほとりに生きています。ですから苦難のときに不思議な慰めを受け取ることができます。また慰めを周りの人に押し流す器とされることもあるでしょう。慰めのほとりに生きている恵みを豊かに受け取ることができますように。
 
| sasshi-n | メッセージ | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
思いもよらぬ場所で・・・。

それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言った。(マルコの福音書15:37ー39 )


神の子に出会った兵士

・思いもよらぬ場所で

・誰も神の子と思いもしなかった時に

| sasshi-n | メッセージ | 21:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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