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アッセンブリー京都教会 
牧師 長澤 聖志のblog
あたかも「境界」のように

エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に命じて、その所有となる相続地の一部を、レビ人に住むための町々として与えさせなさい。彼らはその町々の回りの放牧地をレビ人に与えなければならない。町々は彼らが住むためであり、その放牧地は彼らの家畜や群れや、すべての獣のためである。(民数記 35:1-3)

 

 

レビ人に与えられたのは各部族の相続地の一部の町々であった。

ゆえに彼らは約束の地に散在するようになる。

 

 

レビ人は神と人の間に立つような存在、

境界になるような存在ではないか。

 

その存在が神様を思い起こさせ、

その存在が神様との民との区別をつける。

 

あたかも「境界」のように。

 

神の子とされた僕たちも

世の光、地の塩として存在している。

僕という存在が誰かが神様を思い起こす

きっかけとなるならばなんと幸いなことだろう。

 

神様がみわざをあらわしてくださいますように

 

 

(日々のみことば 2017年8月23日 民数記35:1-12 

                                          引用 新日本聖書刊行会 新改訳聖書)

| sasshi-n | デボーション | 23:27 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
死する者であることを心に留めて

主はモーセに告げて仰せられた。「ミデヤン人にイスラエル人の仇を報いよ。その後あなたは、あなたの民に加えられる。」(民数記 31:1-2)

 

 

その後あなたは、あなたの民に加えられる。

 

なすべき命令が語られ、

その後に死することが宣告された。

 

モーセは死の間際においても

「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」(申命記34:7)とある。

しかし、そんな彼の生も神様の御手の中であることを知る。

 

人は力を持つことに憧れる。

しかし無力になることを通して

あらわされる神のみわざもあるのではないか。

 

死はこの世の全てを手放し、

全てを委ねさせる。

 

自分が死する者であることを心に留める。

生きるものにとって大切なことのように思う。

少しづつこだわっているものから手放し、

しがみついていることを委ねて生きる生き方へと

変えられていくことができるように思うからだ。

 

イエス様が言われた言葉にも

何か通じるものがあるのではないか。

 

イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(ルカの福音書9:23)

 

神様、力ではなくあなたに目を留めて歩みことができますように。

 

(日々のみことば 2017年8月14日 民数記31:1-12 

                                          引用 新日本聖書刊行会 新改訳聖書)

| sasshi-n | デボーション | 21:17 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
規定の中にある愛ある配慮

人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。もし女がまだ婚約していないおとめで、父の家にいて主に誓願をし、あるいは物断ちをする場合、その父が彼女の誓願、あるいは、物断ちを聞いて、その父が彼女に何も言わなければ、彼女のすべての誓願は有効となる。彼女の物断ちもすべて、有効としなければならない。もし父がそれを聞いた日に彼女にそれを禁じるなら、彼女の誓願、または、物断ちはすべて無効としなければならない。彼女の父が彼女に禁じるのであるから、主は彼女を赦される。もし彼女が、自分の誓願、あるいは、物断ちをするのに無思慮に言ったことが、まだその身にかかっているうちにとつぐ場合、夫がそれを聞き、聞いた日に彼女に何も言わなければ、彼女の誓願は有効である。彼女の物断ちも有効でなければならない。もし彼女の夫がそれを聞いた日に彼女に禁じるなら、彼は、彼女がかけている誓願や、物断ちをするのに無思慮に言ったことを破棄することになる。そして主は彼女を赦される。(民数記30:2−8)

 

婚約していないおとめには父が、

誓願した女性が結婚した場合は夫が、

誓いの承認や取り消しに関わることができるという規定だ。

 

軽々しく誓うことの危険から守るための規定なのかもしれない。

規定の中に配慮がある。

 

 

 

 

様々な規定の中にある愛ある配慮に気づくことができますように。

そして本質に生きることができますように。

 

(日々のみことば 2017年8月13日 民数記30:1-16 

                                          引用 新日本聖書刊行会 新改訳聖書)

| sasshi-n | デボーション | 19:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
咎を負う

 

そこで、主はアロンに言われた。「あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちと、あなたの父の家の者たちは、聖所にかかわる咎を負わなければならない。そしてあなたと、あなたとともにいるあなたの子たちが、あなたがたの祭司職にかかわる咎を負わなければならない。(民数記 18:1)

 

 

主はアロンに語られた。

これまでモーセを介して主はアロンに語られた。

 

この務めがアロンに深く関わっていることが

強く印象づけらる。

 

祭司の務めに伴う大きな責任が告げられている

聖所にかかわる咎を負う

祭司職にかかわる咎を負う

 

責任を持つとは

責任を負うということでもある。

 

私たちの咎を負ってくださったイエス様を思う。

責任を持って導いてくださるイエス様に

心と思いを向けて歩むことができますように。

 

 

 

 

(日々のみことば 2017年7月20日 民数記18:1-7 

                                          引用 新日本聖書刊行会 新改訳聖書)

| sasshi-n | デボーション | 22:32 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
贖いの力があらわされた。

モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らの贖いをしなさい。主の前から激しい怒りが出て来て、神罰がもう始まったから。」アロンは、モーセが命じたように、火皿を取って集会の真中に走って行ったが、見よ、神罰はすでに民のうちに始まっていた。そこで彼は香をたいて、民の贖いをした。彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。(民数記16:46-48)

 

アロンの贖いによって

神罰はやんだ。

 

贖いの力があらわされた。

神様の選びが神様によって示された。

大祭司として選ばれたアロンの選びが。

 

まことの大祭司として私たちに与えられたイエス様、

私たちの贖いをなしてくださったイエス様に思いを寄せる。

 

(日々のみことば 2017年7月18日 民数記16:36-50 

                                          引用 新日本聖書刊行会 新改訳聖書)

| sasshi-n | デボーション | 21:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
主が擁護してくださる主の選び

モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。彼らとすべて彼らに属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。このとき、彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。「地が私たちをも、のみこんでしまうかもしれない。」と思ったからである。また、主のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした。(民数記16:31-35)

 

主の裁きが行われた。

 

モーセとアロンが神に選ばれ、

権威を主から与えられていることが示された。

モーセとアロンの選びを否み、

反逆した人々の発言が間違いであることを示すために。

 

主の選びは主が責任を持ってくださり、

主が擁護してくださることを知る。

 

(日々のみことば 2017年7月17日 民数記16:25-35 

                                          引用 新日本聖書刊行会 新改訳聖書)

| sasshi-n | デボーション | 21:12 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
自分の能力の表現でも結果でもなく

モーセは、主がモーセに命じられたとおりを、イスラエル人に告げた。(民数記29:40)

 

モーセがイスラエルの民に告げたのは

主がモーセに命じられたとおりのことであった

 

モーセの忠実さがあらわされている。

神に召されたものが求められれていることは

自分の能力の表現でも結果でもなく

忠実さであることを思い起こす。

 

私たちは結果や自分への評価にとらわれやすい。

 

主が今日という日を

あなたへの忠実さを持ってに

歩ませてくださいますように。

 

 

(日々のみことば 2017年8月12日 民数記29:12-40 

                                          引用 新日本聖書刊行会 新改訳聖書)

| sasshi-n | デボーション | 09:20 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
「とき」の中に生きる

第七月には、その月の一日にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたはどんな労役の仕事もしてはならない。これをあなたがたにとってラッパが吹き鳴らされる日としなければならない。(民数記29:1)

 

時がある。

 

一日があり

一週があり

一月があり

一年がある

 

第七月の一日は一年を二つに分けた始まりの日。

ラッパが吹き鳴らされ、仕事をしない日となる。

 

 

僕たちが時の中に生きるものであることを改めて知る。

 

聖書の言葉を思い起こす。

 

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道者の書3:11)

 

 

時の中に生きる私たちに

神様がみわざをあらわしてくださり

神のなさることは、すべて時にかなって美しいと

あなたに告白することのできる一日となりますように。

 

 

(日々のみことば 2017年8月11日 民数記29:1-11 

                                          引用 新日本聖書刊行会 新改訳聖書)

| sasshi-n | デボーション | 10:36 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
正義で装われた邪さ

彼らは断食を布告し、ナボテを民の前に引き出してすわらせた。そこに、ふたりのよこしまな者がはいって来て、彼の前にすわった。よこしまな者たちは民の前で、ナボテが神と王をのろった、と言って証言した。そこで人々は彼を町の外に引き出し、石打ちにして殺した。こうして、彼らはイゼベルに、「ナボテは石打ちにされて殺された。」と言ってよこした。(第1列王記21:12-14)

 

律法の規則に準じてナボデを殺害した。

正しく規則を行なっている背後で

偽りと邪さが隠れて悪事が進んで行く。

 

彼らが偽証したのは神への冒涜であった。

 

神を冒涜したものの罪は重い。

財産は通常の形で子孫に相続されない

 

律法の定めを用いた陰謀である。

神様が重んじられるための定めを

自分の利益のために用いる。

 

これも偶像礼拝の姿ではないか。

僕たち人間に潜む闇である。

宗教的な装いで覆い

自らを神とする生き方である。

 

神様、このような罪からお守りください。

このような過ちを犯すことのないように。

このような企てを明らかにしてくださいますように。

 

 

(日々のみことば 2017年6月26日 第1列王記21:11-29 

                                          引用 新日本聖書刊行会 新改訳聖書)

| sasshi-n | デボーション | 08:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自ら進んで

あなたがたの贖いのためには、罪のためのいけにえとして、雄やぎ一頭とする。あなたがたは、常供の全焼のいけにえである朝の全焼のいけにえのほかに、これらの物をささげなければならない。このように七日間、毎日主へのなだめのかおりの火によるささげ物を食物としてささげなければならない。これは常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物とに加えてささげられなければならない。(民数記28:22-24)

 

 

 

ささげものがささげられる

神様に近づくために。

 

ささげものには義務的なものと

自発的なものとがある。

 

罪を持ち、罪を犯している私たちが

義であり聖なるお方に近づくことは

そのままではできないのである。

 

罪のためのいけにえは

どうしても必要であり

義務的な側面が強い。

 

このいけにえとなり罪のゆるしを

与えてくださったのがイエス様だ。

私たちの罪はゆるされ、

私たちは聖なる者とみなされた。

 

新しい枠組みの中で

喜んで自発的にささげるささげものを

日々、ささげるものでありたい。

 

神様の喜びとなるささげものに

目を開かせてくださり、

あなたとの深い交わりの中に

導いてくださいますように。

 

(日々のみことば 2017年8月10日 民数記28:16-31 

                                          引用 新日本聖書刊行会 新改訳聖書)

| sasshi-n | デボーション | 08:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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