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元気です! ながさわです!!

アッセンブリー京都教会 
牧師 長澤 聖志のblog
私はこの方に望みをかける。

私は主を待つ。

ヤコブの家から
御顔を隠しておられる方を。
私はこの方に望みをかける。(イザヤ書8:17)

 

御顔を隠しておられる方。


黙しておられるように感じている方
裁きを与えておられるように思える方
なぜ助けを与えてくれないのですかと

叫ばずにはおれない方に。

 

この方に私は望みをかけると語る預言者の言葉。

 

御顔を隠しておられる神様、

なおも私はあなたに望みをかけますという

祈りの言葉に聞こえる。

 

主よ、なお、あなたに望みをかけて

歩むことができますように。

| sasshi-n | デボーション | 09:02 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
追い迫ってくる神のことばとおきて。

しかし、わたしのしもべ、預言者たちにわたしが命じた、わたしのことばとおきてとは、あなたがたの先祖たちに追い迫ったではないか。そこで彼らは立ち返って言った。「万軍の主は、私たちの行ないとわざに応じて、私たちにしようと考えられたとおりを、私たちにされた。」と。(ゼカリヤ書1:6)

 

追い迫ってくる神のことばとおきて。

それは頑な民を神様に立ち返らせた。

 

追い迫ることばとはどのようなことばだろうか。

一度は退け、

それとは違う歩みをしたとしても

いつまでも心に残り、

ある種のひっかりのようなかたちで

心にとどまり続け、

やがて強く迫ってくる

そんなことばなのかもしれない。

 

このような力が神様の言葉にはある。

 

神様、あなたの言葉が

僕のうちで実現しますように。

神様、あなたの言葉が

僕のうちでわざをなしてくださいますように。

 

(日々のみことば 2017年12月1日 ゼカリヤ書1:1-6 

                                          引用 新日本聖書刊行会 新改訳聖書)

| sasshi-n | デボーション | 22:20 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。

ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネの福音書3:27-30)


あの方は盛んになり
私は衰えなければなりません、
と言ったバプテスマのヨハネ。

 

彼はどんな思いでその生涯を
送ったのだろうか

 

彼には葛藤が生じなかったのだろうか。

相手がイエス様だったから・・・なのか。

 

 

他者が盛んになり
自らが衰えるという生き方。

 

そこにはどんな葛藤が
心に芽生えるのだろうか。

 

決して簡単ではない
決して単純ではない
心の葛藤というものが
芽生えるのだと思う。

 

主の助けをいただいて
へりくだり、謙遜に
生きることができたら
素晴らしい。

 

 

バプテスマのヨハネは偉いな。
そんなふうに思う。

| sasshi-n | デボーション | 21:39 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。

主を愛する者たちよ。悪を憎め。主は聖徒たちのいのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。(詩篇 97:10-12)

 

 

光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。(詩篇97:11)

 

種のように蒔かれている光。

 

暗闇と思えるその中にも

種のように蒔かれている光があるということか。

なんの良いものもないと思えるその環境の中にも

見えない光がそこに隠されているということか。

種が芽を出しその実が現れるように

隠されている光がやがて輝き出るということか。

 

 

誠実に歩むことができますように。

 

平凡なことと思えることを真実に行い、

悪者が栄え、得すると思えるその中にあって

悪を憎み、主を愛する者として生きることが

できますように。

 

種のように蒔かれている光がやがて光を放ち

喜びを満たしてくれることを信じて。

 

(日々のみことば 2017年11月28日 詩篇97:1-12 

                                          引用 新日本聖書刊行会 新改訳聖書)

| sasshi-n | デボーション | 08:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた。

モーセとアロンは主の祭司の中に、サムエルは御名を呼ぶ者の中にいた。彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた。主は、雲の柱から、彼らに語られた。彼らは、主のさとしと、彼らに賜わったおきてとを守った。われらの神、主。あなたは、彼らに答えられた。あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。(詩篇99:6-8)

 

彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた。

主は彼らに語られた。

彼らは彼らに賜ったおきてとを守った。

 

 

詩人は僕の呼ぶ声を聞き、

それに答えてくださる神様を

僕に教えてくれる。

 

そして主を呼び、語られた主のさとしと

賜ったおきてをも守ろうとするものにとって

赦しの神であられることも。

 

 

 

主よ、僕のあなたを呼ぶ声を聞き、

語られる神であるあなたが、

この僕に語りかけてくださいますように。

あなたが語られる神であることを

今日も味わい知ることができますように。

 

 

(日々のみことば 2017年11月30日 詩篇99:1-9 

                                          引用 新日本聖書刊行会 新改訳聖書)

| sasshi-n | デボーション | 07:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
確かに、主は地をさばくために来られる。

確かに、主は地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、公正をもって国々の民を、さばかれる。(詩篇98:9)

 

 

主が来られる。

 

これが僕たちの希望。

これが僕たちが

ほめ歌を歌うことができる理由。

 

 

新しい歌を主に歌え。

主に喜び叫べ。

大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。

立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。

 

「ほめ歌え」という招きを

詩人はなんども繰り返す。

 

 

主が来られたクリスマスを

思い起こしながら賛美の歌を歌う。

 

再び来られる主の姿に

思いを寄せながら賛美の歌を歌うことができる。

 

 

たとえ苦しみや困難の中にあっても

やがておいでくださるイエス様を仰ぎ見ながら

ほめ歌を歌うことができるのかもしれない。

 

主よ、やがておいでくださるイエス様の姿を

思い浮かべ、賛美の歌を歌う時、

心に不思議な力がぬくもりが与えられた気がします。

主よ、あなたをなおほめたたえることができますように。

 

 

(日々のみことば 2017年11月29日 詩篇98:1-9 

                                          引用 新日本聖書刊行会 新改訳聖書)

| sasshi-n | デボーション | 22:36 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
人は力に敏感

この出来事の後、アハシュエロス王は、アガグ人ハメダタの子ハマンを重んじ、彼を昇進させて、その席を、彼とともにいるすべての首長たちの上に置いた。それで、王の門のところにいる王の家来たちはみな、ハマンに対してひざをかがめてひれ伏した。王が彼についてこのように命じたからである。しかし、モルデカイはひざもかがめず、ひれ伏そうともしなかった。(エステル記 3:1-2)

 

 

それで・・・

人は力にひざをかがめひれ伏す。

 

王が命じられたからである

 

またハマンが重んじられ、

昇進されたことは

王の家来たちにとって

ひざをかがめひれ伏すに

値することであったのではないか。

 

人は力に敏感だ。

そして力にすり寄る。

それはこの世にあって

利口な生き方なのかもしれない。

 

そのなかにあってひざもかがめず、

ひれ伏そうともしなかったモルデカイ

 

彼はいかなる人物だったのであろうか。

やがてハマンの姿が明らかになる。

憤りに満たされ、

謀略を巡らすハマンの姿が。

 

力に惑わされず

力を恐れをず

力に憧れず

人を正しく見、

対応することが

できたらと思う。

 

聖霊なる神様が僕を導き、

無力さのなかにあらわされる

神様のお力にお頼りすることが

できますように。

 

 

 

(日々のみことば 2017年11月19日 エステル記2:19-3:6 

                                          引用 新日本聖書刊行会 新改訳聖書)

| sasshi-n | デボーション | 21:18 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
女には父も母もいなかったからである。

モルデカイはおじの娘ハダサ、すなわち、エステルを養育していた。彼女には父も母もいなかったからである。このおとめは、姿も顔だちも美しかった。彼女の父と母が死んだとき、モルデカイは彼女を引き取って自分の娘としたのである。王の命令、すなわちその法令が伝えられて、多くのおとめたちがシュシャンの城に集められ、ヘガイの管理のもとに置かれたとき、エステルも王宮に連れて行かれて、女たちの監督官ヘガイの管理のもとに置かれた。このおとめは、ヘガイの心にかない、彼の好意を得た。そこで、彼は急いで化粧に必要な品々とごちそうを彼女に与え、また王宮から選ばれた七人の侍女を彼女にあてがった。そして、ヘガイは彼女とその侍女たちを、婦人部屋の最も良い所に移した。(エステル記2:7-9)

 

 

不思議ないきさつで王妃となるエステル。

エステルがどのような生い立ちが記されている。

 

父も母もいなかった

モルデカイに養育されていた

姿も顔立ちも美しかった

 

そして彼女は

「監督官ヘガイの好意を得た。」とある

 

彼女のこれまでの人生とは

どのようなものだったのだろうか。

彼女はどのように育まれてきたのだろうか。

彼女はそのことをどのように理解していたのだろうか。

 

 

僕たちにはそれぞれの生い立ちがある

実に様々な生い立ちが。

 

感謝と喜びを持って受け入れられる生い立ちが

あるとともにとても受け入れられない生い立ち

というものもあると思う。

 

しかしそれが神様の御手にあることを

信じることができれば、と思う。

 

神様が計画しておられる

幸いを与える計画へと

御手の中で守られ、導かれ、

備えられていることを。

 

 

(日々のみことば 2017年11月18日 エステル記2:1-18                                               

                                引用 新日本聖書刊行会 新改訳聖書)

| sasshi-n | デボーション | 07:09 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
王は酒で心が陽気になり

エステルが王妃となる背景が記されている。

それはささいと思えることが始まりであった。

 

王妃ワシュティも、アハシュエロス王の王宮で婦人たちのために宴会を催した。七日目に、王は酒で心が陽気になり、アハシュエロス王に仕える七人の宦官メフマン、ビゼタ、ハルボナ、ビグタ、アバグタ、ゼタル、カルカスに命じて、王妃ワシュティに王冠をかぶらせ、彼女を王の前に連れて来るようにと言った。それは、彼女の容姿が美しかったので、その美しさを民と首長たちに見せるためであった。しかし、王妃ワシュティが宦官から伝えられた王の命令を拒んで来ようとしなかったので、王は非常に怒り、その憤りが彼のうちで燃え立った。(エステル記 1:9-12)

 

 

王は酒で心が陽気になり・・・

王は非常に怒り・・・

 

 

 

王妃の美しさを民と首長たちに見せるために

連れて来させようとしたが王妃に拒まれた。

それが王が非常に怒った原因であった。

 

歴史に介入される神様の方法の不思議を思う。

 

 

(日々のみことば 2017年11月17日 エステル記1:1-22

                             引用 新日本聖書刊行会 新改訳聖書)

| sasshi-n | デボーション | 08:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ほふり場に引かれて行く子羊のように。

「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」(ヨハネの福音書 21:18)

 

 

彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。(イザヤ書 53:7)

 

 

自分の思い通りに行きたいところにではなく

他の人によって行きたくないところに連れて行かれる。

 

 

ほふり場に引かれて行く子羊のように。

 

ペテロの晩年とイエス様の十字架に向かう姿。

 

僕たちにもこのような出来事はあるのだと思う。

自分の思い通りではなく

他の人によって動かされる人生の出来事。

 

ペテロの姿に

イエス様の姿

聖書の物語に僕たちは出会い、

聖書の物語に慰めと力を受ける。

聖霊のお働きによって。

| sasshi-n | デボーション | 23:29 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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