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元気です! ながさわです!!

アッセンブリー京都教会 
牧師 長澤 聖志のblog
≪いつまでもおなじ道にとどまって、すべてがうまく行くまで独り言を言いつづけている≫
いつものコースを
いつものように散歩していると
鳥のさえずりが聞こえてきた。

聞こえていたのに聞いていなかった音。
きっと、考え事や独り言でいっぱいだったのだと思う。

思い出された一節。

ある日、カルロスはドン・ファンに先住民族の教えに従った生き方について尋ねた。するとドン・ファンは、「あなたは考えすぎだし、しゃべりすぎだ。独り言を言うのはやめなさい」と答えて、カルロスたちが、心のなかで自分自身に語りかけることで自分たちの世界を維持し、内心、選択したことを繰り返し自分に言い聞かせ、いつまでもおなじ道にとどまって、すべてがうまく行くまで独り言を言いつづけている、と説明した。世界はこういうものだと、自分に言い聞かせることをやめれば、世界は変わる、とドン・ファンは言った。(差し伸べられる手p94 ヘンリ・J・M・ナウウェン著 三俣元訳 女子パウロ会

| sasshi-n | | 19:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
心理的に的中する予言という現象を体験していたように思います。
惨めな気持ちになることがあります。

”心理的に的中する予言といわれる悪循環”を
最近の僕は体験していたように思います。

知らぬ間にこの悪循環に陥っていることが
しばしばあることに気づきます。

≪・・・・自己評価が低く、猜疑心が強いときに引き込まれる悪循環とそのような否定的な感情を強め、固めるものの見方について話しました。それは心理的に的中する予言という現象の繰り返しです。つまり、私はいくらか心配と恐れを抱いて人と関わり始めると、人が何をしても話しても、相手のほうが優れていて価値ある人だと感じてしまい、自分が劣っていて、話し相手にもならないという態度をとってしまいます。しばらく経って、その関わりが耐え難いものになると、何か理由を作ってそこから離れ、始めよりずっと惨めな気持ちになります。≫
p120 『ジェネシー・ダイアリー』ヘンリー・ナーウェン著 聖公会出版
| sasshi-n | | 19:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自己拒否という誘惑

自己拒否という誘惑

「愛されている者」に「なりたい」と願っています。
しかし、これは簡単な道ではありません。
なぜならば、自己を拒否するという誘惑が
僕につきまとうからです。

≪自己拒否は、霊的生活の最大の敵です。それは、私たちを「愛する者」と呼んでくださる聖なる声に反することです。愛されている存在であることは、私たちの存在のもっとも中心的な真理の表現なのですから。≫p32 
『愛されている者の生活』ヘンリー・ナーウェン著 小渕春夫訳 あめんどう
≪わたしたちの人生における最大の罠は、成功でも、名声でも、権力でもなく、自己を拒否することです。成功や名声や権力は、実際、大きな誘惑をもたらします。しかし、それらが魅了されるのは、自己を拒否するという、もっと大きな誘惑から出ていることが多いのです。≫p29-30 
『愛されている者の生活』ヘンリー・ナーウェン著 小渕春夫訳 あめんどう


光があてられた気がします。


自己否定こそが自己実現の道、
自己否定こそが信仰の本質。
カルトグループに所属していた頃、
そんなふうに教えられ、そう信じて生きていました。

そしてそれは、クリスチャンになってからも、
手放しきれない習慣であり、思いでもあります

自己を拒否することが霊的生活の最大の敵であり、
罠であるというナーウェンの指摘は、
僕の心の思いに光をあててくれました。


| sasshi-n | | 07:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自分のつまらないプライドに必死にしがみついている自分の姿が見えてきました。

尊厳が剥ぎ取られていく
十字架につけられたイエス様。
その着物をはぎ取り、くじ引きする兵士たち。
イエス様の尊厳がはぎ取られていく・・・。

≪着物をくじ引きにするという描写は、詩22編においてもこの受難記事においても、嘆き悲しむ者ないしイエスの全面的敗北を示す。・・・・・死んでいく者の着物が、まさその人物の生きている間に、彼があたかももう死んでしまったかのように分配される。敵対者による侮辱として、これほどひどいものはあり得ないであろう。(p357 『新約聖書釈義事典��』 教文館)

生きているのに死んでしまったかのように扱われる行為は、
生きている者の尊厳をはぎ取る行為のように思います。

尊厳をはぎ取られていくイエス様。
それは僕の罪のためでした。


そのかたわらに、つまらないプライドに
しがみついている僕の姿が見えてきました。

ありのままの姿を恐れ、
ありのままの姿を隠すための着物であるかのように、
プライドに必死にしがみついている僕の姿です。


そのプライドが僕を意固地にし、頑なにし、
人へのやさしい配慮を奪ってしまっているのにも関わらず。


僕のために尊厳をはぎ取られることをもよしとされたイエス様。
十字架の下でイエス様を仰いでいると、
プライドにしがみついている僕の手を、
ゆるめることができそうな気がします。

 

 

| sasshi-n | | 07:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
今を生きる

今を生きる
「今」を生きたいと願っています。
でも今を生きるのは案外難しいとことだと思います。

過去でも未来でもなく
「今」しか生きれないはずなのに、
「今をしっかり生きている!」という充実感を
体験することは決して多くはありません。

今を生きるとはどういう事なのでしょうか。

≪今日という日を心から経験する≫
≪今という時に心から信頼する≫
2つのヘンリ・ナーウェンの言葉は
今を生きる事ということに示唆を与えてくれます。

≪転職や家庭内の不和、伝染病、自然災害、核兵器による世界規模の環境破壊などの可能性は私たちを不安にし、恐れさせ、疑い深くさせ、貪欲、神経質、そして不機嫌にさせます。心を奪う「これらのもの」ごとは、心の自由を芯から感じることを妨げます。絶え間なく不慮の出来事に備えているため、今という時に心から信頼することができません。私たちのエネルギーのかなりが、これらの恐るべき、心を奪うものに費やされていると言っても決して過言ではないでしょう。個人的な生活ばかりか、コミュニティとしての生き方までもが、明日に対する思い煩いで形作られてしまうため、今日という日を心から経験することもできないでいます。≫[p25 『すべて新たに−スピリチュアルな生き方への招待−』ヘンリ・ナーウェン著、日下部 拓 訳 あめんどう]


心配や不安、思い煩いなど未来のことで心がいっぱいなる。
失敗体験、成功体験などの過去のできごとと
そしてそこから生じる不平不満で心が占められる。
僕がしばしば体験することです。

僕の心にいっぱいになっている未来や過去が
「今」を心から経験することや信頼することを
心の外に占めだしている、
これが僕の心の状態なのかもしれません。

今日という日を心から経験し、
今という時に心から信頼することができる、
そんな「今」を過ごしたいです。

 

| sasshi-n | | 07:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
無力感に呵まれ、恨みがましくなり、心が沈むときがあります。

自分のやっていることに意味が見いだせなくなることがあります。

やってはいるけど無力感に呵まれ
やっていることを認めてもらえず恨みがましい思いがわきあがり、
抑うつ感が襲ってくる。
そんな感情に押しつぶされそうになることがあります。


まさに≪つながりが壊れている≫状態です。

つまらなさ、怨念、抑うつ感はすべて、人が他とのつながりが見いだせないことからくる感情です。それは、つながりが壊れている人生というものを表しています。それはどこにも属していないという感覚をもたらします。個人間の関係におけるこの断絶感を、人は孤独として経験します。孤独を感じているとき私たちは、自分を支え、養ってくれるコミュニティの一員とは少しも感じず、いかに大勢の人に囲まれていようと、一人で孤立しているように感じます。[p31、『すべて新たに-スピリチュアルな生き方への招待-』 ヘンリ・ナーウェン著、日下部拓訳]

知らず知らずのうちに与えられている「つながり」を見失い、
ますます自らを閉ざしてしまう悪循環。
そしてつまらなくて、恨みがましくなり、抑うつ感に呵まれる。


そんなとき、しっかりと「つながり」に目を向けたいと思います。
それはキリストとのつながりです。
キリストとつながるとき、
「未来」とそして「世界」に、
僕はしっかりとつながっているからです。

 

| sasshi-n | | 14:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
喪失したものの中から見出される慰めと希望

自分が想像もしなかった場所から与えられた慰めと希望。
慰めや希望を得たいと願うときがあります。
そんなとき慰めや希望を得られそうところを探します。
それは明るく、前向きで、積極的な香りのする場所です。


でも、慰めが与えられ、希望が与えられた場所は、
自分が想像もしなかった場所でした。
それは喪失したものの中にありました。


喪失したものと向き合うことが≪嘆きが踊りに変わる≫、
最初のステップだとヘンリ・ナーウェンは記しています。
なぜならば、わたしたちの栄光は痛みの中に隠されているからだというのです。

≪わたしたちの栄光は痛みの中に隠されています。その痛みの経験の中に、神ご自身を贈り物として迎え入れるなら、それは真実です。わたしたちが神に立ち返り、自分の痛みに抵抗しないなら、痛みを、より偉大な善きものへと神に変えていただけます。そこに他の人も加わってもらい、共にそれを見いだすことができます。≫
[『嘆きは踊りに変わる-苦難のなかの希望-』ヘンリ・ナーウェン著、ティモシージョーンズ編、小渕春夫訳、あめんどう]

また喪失したものや苦しみを切り離そうとする努力を以下のように記しています。

≪さまざまな困難な道を、軽く飛び越えて行けるかのような幻想を育んではなりません。なぜならそれは、神の目と自分の意識から、自分の人生の一部を隠そうとすることであり、自分の過去を自分で裁くことになるからです。それは、人間的な恐れの感情によって神の憐れみを狭めてしまうことです。
 自ら苦しみを切り離そうと努力することは、神がわたしたちのために負ってくださった苦しみから、自分を切り離すことになります。喪失の苦しみや心の痛みから脱出する道は、その中を歩み、そこを通り抜けることなのです。≫
[『嘆きは踊りに変わる-苦難のなかの希望-ヘンリ・ナーウェン著、ティモシージョーンズ編、小渕春夫訳、あめんどう]

喪失したものに向き合うことは痛みが伴います。
しかし、そこから不思議な慰めと揺るぎない希望を幾度もいただきました。


僕も≪わたしたちの栄光は痛みの中に隠されている≫という意味を
体験させていただいている気がします。

 

| sasshi-n | | 14:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自分を否定することに傾きやすいけど・・・
 僕も「愛されている者」に「なりたい」です。
愛されるに値しない者を愛してくださる神様の愛。
自分自身の姿に真摯に向き合う度ごとに、
神様の愛の大きさに気づきます。
それと同時に愛されている者であるという確信をもって
歩み続けることの難しさを体験します。
僕たちは自分を否定することに傾きやすいからです。

ヘンリ・ナーウェンはその著書『愛されている者の生活』で
愛されている者であるだけでなく、
愛されている者に「なる」必要性を記しています。
そして愛されている者になることに関して次のように記しています。

愛されている者になるとは、私たちが愛されているという真理を、
私たちの考え、言葉、行動のすべてにおいて肉づけさせることです。

(「愛されている者の生活」ヘンリ・ナーウェン著 小渕春夫訳 あめんどう)


僕も「愛されている者」に「なりたい」です。

| sasshi-n | | 09:20 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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