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アッセンブリー京都教会 
牧師 長澤 聖志のblog
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祈りを聞き、涙を見ておられるお方

『祈りを聞き、涙を見ておられるお方』

 

 20:1そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」

 20:2そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。

 20:3「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。

 20:4イザヤがまだ中庭を出ないうちに、次のような主のことばが彼にあった。

 20:5「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。

 20:6わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」

 20:7イザヤが、「干しいちじくをひとかたまり、持って来なさい。」と命じたので、人々はそれを持って来て、腫物に当てた。すると、彼は直った。(第2列王記20:1-7)

 

神様はどのようなお方なのでしょうか。

神様は死に至るような重い病を癒すことのできるお方です。

そして私たちの祈りを聞き、

私たちの涙を見ておられるお方だと聖書は語っています。 

 

先ほどお読みした箇所に一人の人物が

大声で泣いたことが記されています。

 

「ヒゼキヤはお大声で泣いた」(3節)。

 

ヒゼキヤとはどのような人物なのでしょうか。

彼は王様です。ユダ王国の王様です。

一国の王様が大声で泣いたというのです。

 

彼はどのような王様だったのでしょうか。

 

<彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼の後にも前にもユダの王たちの中で彼ほどのものは誰もいなかった。彼は主に堅くつき従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。主は彼とともにおられた。彼はどこへ出ていっても成功を収めた。彼はアッシリヤの王に反逆し、彼に仕えなかった。>(第2列王記18:5-7)

 

ヒゼキヤ王は神様を信頼し、

神様の御心を行うことを心にかけた良い王様でした。

 

イスラエルには多くの王様が登場しますが

多くは神様に背く王様です。

そのような中にあってこのヒゼキヤ王は

「彼の後にも前にもユダの王たちの中で

彼ほどのものは誰もいなかった。」と

言われるほどに良き王様であったのです。  

 

この神様を信頼する王様が重い病を患い

大声で泣いたのです。

 

彼は一国の王様でしたが

泣くことのできる場所を持っていました。

これが彼に与えられていた恵みではないでしょうか。

人目をはばからず、自分の地位や立場を気にすることなく

泣くことのできる場所。

そんな場所を私たちは持っているでしょうか。

 

彼が大声で泣いたのは祈りの中でした。

壁に向かって祈った祈りの中で

彼は大声で泣いたのでした。

彼は神様の前で泣いたのです。

彼にとって大声で泣くことのできる場所、

それは神様の前でした。 

 

 

ここに彼の神様への信頼というものが

あらわされている気がします。

その信頼はへりくだった心でもあるのです。

 

自らを一番とする生き方ではなく

神様のまえにへりくだり、

虚勢を脱ぎ去り、神様の前にひざまずき、

神様を主とするという生き方です。

 

このような場所を持っている人は幸いだと思います。

その場所はいつでも開かれています。

自らの悲しみや恐れを正直にあらわし

大声で泣くことができる場所

を私たちは与えられているのです。

それは神様の前に開かれています。 

 

彼が大声で泣いたとき

彼はどのような状況にいたのでしょうか。

一節「そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた」。

彼は病にかかっていたのです。

しかも死が間近に迫っているような重い病です。

病と死、それはわたしたちの人生にも

深く関わっていることではないでしょうか。

 

病は私たちに苦しみをもたらします。

死は私たちにいろいろなものを手放すことを要求し、

しばしば恐れをもたらします。

しかし、病の中でヒゼキヤはその状況を通して

迫り来る死を感じていただけではありません。

彼の信頼する神様から死を宣告されるのです。1

節の後半です。

 

<「そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう言われる。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない。』」>

 

「あなたは死ぬ。治らない」とはっきりヒゼキヤは預言者から

主の宣告を聞くのです。

神様もなかなかはっきりおっしゃるお方です。

「あなたは死ぬ。治らない。」・・・。

この言葉を聞くヒゼキヤにとってなかなかきつい言葉ではないでしょうか。

もう少し言い方があるのではないかと僕は思ってしまいます。

 

 

ヒゼキヤに語られた神様の言葉は私たちの人生についていくつかのことを教えてくれます。

一つは、神様は私たちの生と死を握っておられるということです。

病を通して死が近いことを推測することはできるでしょう。

しかし死を宣告することができるのは神様しかいらっしゃいません。

しかも、この宣告がなされた後、

ヒゼキヤの祈りを聞かれた神様はこの病を癒し、

15年の寿命を加えられるのです。

ヒゼキヤが信じていた神様は人間の生と死を握っておられるお方です。

 

また「あなたは死ぬ」と宣告された神様は「

あなたの家を整理せよ」とヒゼキヤに命じられました。

死は人生の歩みにおいて、培ったこと、手に入れたもの、

積み上げたことを手放すことだと申し上げました。

 

しかし、ただ手放すだけではなく引き継ぐことでもあるということです。

私たちのこの世の歩みは死によって無駄になるのではなく、

のちの人たちによって引き継がれるということです。

ヒゼキヤ王の自らの歩み、すなわち神様の前に誠実に歩んだ歩みは

彼の死によって水の泡となるようなものではありませんでした。

 

蒔かれたタネが時をへて実を結ぶように、

なくなるものではないとうことです。

ここに神様を信じて歩むものの恵みがあるのです。

誠実な歩みは時として顧みられることなく、

何の得もないように思える時があります。

 

ましてや神様に対する誠実はこの世にあって

評価されないことも多々あるのが現実です。

しかしそれは決して消え去るものではなく

神様を信頼するものによって引き継がれ、

やがて大きな実を結ぶことを信じることができるのです。

 

 神様から『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない。』

という言葉を聞いたヒゼキヤがしたことは祈ることでした。3節をお読みします。

 

「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。

 

この祈りを聞かれた神様は預言者を引き返させ

新たな宣告をヒゼキヤに対してなさいます。

 

『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」(20:5−6)

 

死の宣告から癒しへの宣告へと変えられた一つのきっかけは

ヒゼキヤの祈りと彼が流した涙でした。

それは神様が祈りを聞き、

私たちの流す涙を見ておられるお方だからです。

 

神様は私たちの祈りを軽んじられません。

また私たちの涙を地に落とすことのないお方です。

神様の前にひざまずくとき私たちの涙は

地に落ちるのではなく天にのぼり神様にのぼる涙なのです。

 

私たちはこの世にあって多くの悲しみや苦しみを体験し、

多くの涙を流すことでしょう。

しかし、神様はその涙を決して忘れることのないお方です。

神様の前にある誠実な歩みが決して忘れられることのないのと同じように、

私たちの涙を神様は決してお忘れになりません。

 

聖書はこのような約束を私たちに与えています。黙示録21:2-4をお読みします。

 

<私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 21:3そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、 21:4彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」>(黙示録21:2-4)

 

 

神様は私たちの祈りを聞いてくださり

私たちの涙をみておられるお方です。

そしてその涙をすっかり拭ってくださるお方でもあるのです。

新しい天と地が訪れるとき、

私たちの涙を神様は拭い取ってくださるのです。

 

私たちはこの世で多くの涙を流すことでしょう。

病の苦しみによって。死の恐れによって。

人間関係によって傷つくことによって。

悲しみによって。痛みによって。・・・。

 

しかし、神様はその涙を覚えていてくださり拭ってくださるお方です。

ヒゼキヤが神様に近づいたように

私たちもこの神様に今、近づく者でありたいと思います。

神様は私たちの祈りを聞き、良きことをしてくださるお方です。

 

お祈りします。

| sasshi-n | メッセージ | 20:12 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
コメント
野外礼拝のメッセージですか? ブログアップに感謝いたします。 第2礼拝も聞きました。

救いは一瞬 聖化は一生と親愛なるクリスチャンが言われていました。 一生かけて私たちは喜びの時も悲しみの時も 神様が私たちの涙を知ってくださると信じ歩んでいきたいです。

先生のメッセージを聞くことも神様の導き 私はなんちゃってクリスチャンでした 先生の教会のメッセージなしに神様につながることは無かったです。 神様は私の涙を覚えてくださったと信じられます

今週の先生のお働きが豊かに祝福されよき実を撒かれますように お祈りいたします。
| シェルティ大好き | 2018/08/28 2:17 PM |
シェルティ大好きさん。
コメントありがとうございます。
野外礼拝というか教会の庭でメッセージしました。
教会庭でバーベキューパーティーをして
そのあとに礼拝でした。
英語で通訳していただきました。

いつもスマホで一応録音するのですが、
録音後確認したら録音に失敗してました。

その時の原稿をアップさせていただきました。


| ながさわ | 2018/08/28 4:32 PM |
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